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キヤノン L-1を頂いた経緯

2005年2月11日(金)

キヤノンL1が修理から帰って来ました。このカメラがわたしのところへやって来てすぐオーバーホールをしていただくためにナガノカメラワークへ入院させていました。

部品が欠落していたわけでも動作しなかったわけでもありませんでした。ただ長期に渡り使用して来たにもかかわらずオーバーホールがなされていなかったようです。
ナガノカメラワークへ持ち込んで計測してもらったところ、シャッター速度は低速度側はほぼ正確に出ていたのですが、高速側はオイル切れのために先幕速度が後幕速度よりも遅いと言う状態でした。そのためこのままで撮影すると高速シャッターを使用した時には露光ムラが出るのは確実でした。

もしこれを記念品として飾っておくだけならオーバーホールの必要は無いのですが、機械は動いてなんぼのもの。ほとんど使わないと判ってはいても確実に動くようになっているに越した事はありません。そのためにオーバーホールをお願いしてきました。動かない精密機械なんてやはり興味は無い。カメラも時計もね。

このカメラは以前わたしが勤務していた印刷会社の上司が持っていたものでした。
どういった経緯で手元にやって来たのかを話と長い話になりますので、かいつまんで書く事にします。
興味のある方はどうぞお読みください。


2005年1月1日元旦の朝、いつものように届いた年賀状を読んでいました。その中に毎年手書きでいただく年賀状があります。ほとんどが年配の方からでして、あまりに達筆の方ばかりなので日常コンピュータから吐き出される文字ばかり見なれている身には解読が難しいものが多々あります。

それでも手書きで書いていただく文字には紋切り型ではない暖かさがつまった文面がいくつもあります。
何枚か読んでいった時にふと手が止まりました。永年使ってきたカメラを譲りたい旨が書いてあったのです。
この方はわたしが最初に勤務した印刷会社の経理部長であり取締役でした。
わたしの部署とは全く関連のない経理の偉いさんだったのですが、カメラの事で時々呼ばれて話をしました。
この方は会社でただ一人の女性取締役で、歯に衣着せぬ言葉には定評のあった方です。
要するに恐いお方でした。

しかしわたしにはいつも優しくてこちらが話すカメラの蘊蓄をいつもニコニコしながら聞いていただき、またご自身が欲しいと思うカメラの相談を持ちかけて下さいました。
その会社を36歳の時に退社してから15年が経ちました。
毎年のご挨拶を兼ねた年賀状は欠かした事はありませんでしたが、退社以来お会いした事は無く、年賀状に書かれている文字を見て近況を推測する事ぐらいでした。

今年届いた年賀状にカメラをお譲りすると書かれてあったので、連絡をすぐにしたほうが良いのかあるいは正月が明けてから連絡をしたほうが良いのか迷いましたが、せっかく元旦に到着する年賀状に書いていただいたくらいだからすぐに連絡をしたほうが良いのだと自分自身を納得させてからすぐに電話をしました。

電話の呼び出しの後、聞こえた声は15年前に聞いた声とほとんど変わらない声だったのが印象的でした。
わたしの名前を名乗ると一瞬の空白がありましたが、すぐに思い出していただけたようでした。
「明けましておめでとうございます。年賀状にカメラの事を書いて下さった事をとてもうれしく思います。なによりわたしがカメラを好きだった事を覚えていて下さった事が本当にうれしかったです。」と伝えたら、
「1958年に給料をもらって買ったカメラだったのですが、今となっては古くて重いカメラなのでもう使わなくなりました。いろんな方から譲ってくれと言われたのですが、これを譲るのは福井君と思ってたのですよ。」と言って下さったのです。

なんと言ったらいいのでしょう。この時ばかりは不覚にも涙があふれそうになったのをかろうじて押さえました。


電話を差し上げてから4日後の1月4日、まだ仕事の車はほとんど走っていない西名阪を大阪に向かいました。
場所は大阪市平野区。時間貸しの駐車場がほとんどない場所です。ナビ画面の指示どおりに走ってゆくと狭い住宅街の中で目的の表札を見つけました。
家の前から電話を入れてから1分後、玄関が開いて出て来て下さった取締役のお顔を見たとき15年の歳月が経った事を実感しました。

2006年1月28日(土曜日)
キヤノンL1をわたしに譲ってくださった方が本日永眠されました。
カメラを譲っていただいてから約1年余り。昨年のお正月にお会い出来てお話出来たことがわたしには忘れられない思い出となりました。